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名草の伝説 臥竜の窪〜弘法大師修法の遺跡〜  

名草キャンプ場右手の大芝を起点に、弁天さまを取り巻く形で、池の平〜白坂峠〜弁天沢〜奥の院西まで約1.6kmの入山林道が開通したのは昭和45年3月でした。
 それまでの木橇道を改修して3.6m幅に広げ、観光ルートとしても利用できるようにしたものですが、この林道の途中から北に500mほど入ったところに、弘法大師の密教修法の遺跡と伝えられる“臥竜の窪”があります。
(弘法大師は諡名(おくりな)ですから、この場合は空海上人というのが本当かも知れませんが、ややこしくなりますので、弘法大師として話を進めていくことにします。)
 ご存知のように、弘法大師は僧名を空海といい、我が国真言宗の開祖として知られる平安初期の高僧で、日本三筆の1人として有名です。では、なぜ弘法大師が名草のこんな山奥に来たのでしょうか・・・。それについて、次のような伝説が残されています。

 弘仁5年(814)天女のお告げで江ノ島に堂塔を建立した弘法大師は、一百座の護摩の灰をもって三体の弁財天像をつくり、江ノ島と琵琶湖の竹生島、野州足利・鉦打の里の大勝(聖)院に安置したといい、これを日本三弁天といったそうです。
 大勝(聖)院というのは、大岩の毘沙門さまで知られる大岩山最勝寺の末寺で、鉦打の里、つまり、今の栄町にあったといいますが、どうしたことか、ここにまつられていた弁財天像が行方不明になったので、これを聞かれた大師が、布教の旅を続けながらお像をさがすため再び足利を訪れました。
 このとき、山中で道に迷った大師の前に、一匹の白い大蛇があらわれ、“どうぞこちらへ”とでもいうように、ときどき大師の方を振り返りながら沢の方に動き出しました。これは弁財天のつかいしめ(お使い)と感じた大師がそのあとをついていくと、やがて沢道の見えるところまで案内した大蛇は“私の役目は終わりました”とばかり、そばの岩の穴の中に姿を消してしまいました。
 ここが、最初にお伝えした臥竜の窪です。大師はこのとき、里人たちが水不足で困ることのないよう真言密教の修法を行い、弁財天を勧請しました。これが入山弁天、つまり後の“名草の弁天さま”の始まりというわけです。
 地形的には、今の本殿(厳島神社)より1q以上も北になりますが、これは元禄年間(1688〜1703)当時の領主・本庄因幡守宗資の発願で、石割楓や御船石など巨石群=国指定の天然記念物=のある本殿のところに4坪半(約15u)のお宮を建ててこちらに移ったためです。
※ 本庄因幡守宗資は、5代将軍綱吉の生母桂昌院の実弟です。
 名草の弁天さまは、明治初年の神仏分離令で厳島神社と改称、祭神も弁財天から市杵島姫命(市杵島毘売命)と変わり、昭和41年には社殿や神楽殿、大鳥居などを新築して面目を一新しましたが、土地の人々は“昔から干害がないのは弁天さまのおかげ”と今でも弁天さまと呼んで深く敬信しています。
※ 弁財天は妙音天、美音天、大弁才功徳天ともいい、七福神のうちのただ1人の女神で、音楽・弁才・福智、延寿・除災・得勝などを司る神様といわれています。
 余談になりますが・・・臥竜の窪から西へ、二つの沢をへだてたところに、“観音ヶ窪”があり、岩屋の中に観音さまが祀られています。
 貞享4年(1687)のこと。マキ拾いに山の中に入った一人の里人が、急に胸が痛み出しました。いわゆる“さしこみ”とか“癪”といったものだったのでしょうが、激痛のため、動くことも助けを求めることもできません。
 どこかに人影でもと、痛みをこらえて当りを見回したところ、下の谷にある岩屋の中から光が差しているのが目にとまりました。この里人は、その光が日頃信心している観世音菩薩の後光に見えたそうで、思わずこの光に向かって手を合わせました。すると、とたんに痛みが取れました。
 この話は、すぐに村中に伝わり、病気で苦しんでいた人々や家族の“岩屋参り”が始まりましたが、誠に霊験あらたかで、みんな薄紙をはぐように快方にむかいました。そこで同年8月16日、村中総出で岩屋の前に観音堂を建てたり、道を作ったりしました。
 記録によると、2日後の8月18日に調べたら3貫100文のお賽銭があり、村役からお寺に納めました。さらに一ヵ月後の9月18日に再び賽銭箱をあけたところ、4貫600文もお賽銭があがっていたといいます。1貫は1000文ですから、仮に1人が1文ずつあげたとすると、一ヶ月に延べ4,600人の参詣人があったことになるわけです。
 このブーム!がいつごろまで続いたものかわかりませんが、以来幾星霜・・・今はめったに人が訪れぬ岩屋の奥に、観音さまだけがひっそりとたたずんでいます。

臺 一雄 著「足利の伝説、続足利の伝説、続々足利の伝説」より

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