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名草の伝説 金蔵院と清源寺〜尊氏の重臣南氏の遺跡〜 
名草町の名産にショウガがある。かつて、この地方ではショウガは栽培されていなかった。これが本当のショウガナイである。冗談はともかく、この名草の地にショウガ作りを持ち込んだのは、南遠江守宗継であるという伝承が残っている。
 宗継の祖父の頼基は鎌倉時代の末に足利氏の所領を管理する役人として重んじられた武士で、足利庄の丸木郷(現・名草下町)を支配したという。そして、孫の宗継が丸木郷を生まれ故郷の紀州名草にちなんで名草郷と改めたのだという。じつは、南氏というのは足利氏に仕えた高階氏の一族で、足利氏にたいへん重く用いられていたのである。なにしろ、本家には高師直という実力ナンバーワンの武将が足利尊氏を補佐して、初期の室町幕府を牛耳っていたので、その一族に連なる人々はみんなそれなりに抜擢された活躍をしていた。南氏一族もその例にあてはまる。
 さて、名草中町の真言宗豊山派の金蔵院の寺域は南氏の屋敷跡と伝えられ、もとは堀の内と称したという。一町四方(約109m)ほどの規模の館であったと考えられる。現在も寺域の西側に僅かに土塁跡が認められる。境内には、宗継の孫の宗氏の五輪塔があり、永和5年(1375)12月23日に亡くなったことが刻まれている。
 では、ここで南北朝時代以降の南氏のたどった道を略述べてみよう。宗継は、建武3年(1336)九州多々良浜の戦いで足利尊氏・直義の軍にしたがって奮戦し再入落を果たし、ついで比叡山の攻撃に加わった。
 また、正平3年(1348)の四条畷の戦いでは南宗継・南次郎左衛門の両名は高師直・師泰の指揮下に入り、楠木正行の軍と戦ったが、次郎左衛門は討ち死にをしている。正平7年(1352)新田義興の鎌倉攻めにさいし宗継は安房・上総の兵を率いて防戦した。宗継の子の宗直も、この戦いに加わった。しかし、高師直が没落したあとは、高氏一族も没落の一途をたどることになる。そのような中で、南宗継は終始、尊氏と行動をともにし、観応2年(1351)11月、尊氏が直義討伐のため東下したさい、これに従い鎌倉に留まった尊氏のもとで執事のような役を務めた。時は流れ南氏の子孫は、その一派が名草の地に居住し、戦国時代には長尾氏の家臣として、また、南姓を白石と改姓し、あるいは梁田郡朝倉に移って丸山氏などとして、発展していった。
 この金蔵院の四方の山麓に臨済宗の清源寺がある。開基は南宗継、つまり宗継によって建立された寺なのである。この寺の古さを物語る南氏系図・尊氏発給の文書2通・南宗継の自画像などが保存されている。さらに、境内の南東の杉木立の中には南宗継ら5基の五輪塔が安置されてある。南氏一族の墓である。金蔵院にある宗直の供養塔同様、じつに堂々とした塔であって、往時の南氏の勢力というものが十分にうかがえる。
 古来、名草48ヶ寺という言葉が残っているほど、この地区には寺の数が多かったという。南氏の五輪塔の中には南宝寺殿・称念寺殿などという法号を名のる南氏一族がいたことがわかる。南宝寺は現存する真言宗の寺、称念寺はいまの名草小学校の敷地にあった時宗の寺であったという。
 名草のショウガ栽培はすっかり減ったが、今でも寿司屋に納めるガリは、名草の特産品である。

菊地 卓 著「新編足利浪漫紀行」より

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