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名草の伝説 須花坂〜馬前に白帷子の女が〜  
県道足利下彦間線を、名草中町から北東に進んでいくと、田沼町(現:佐野市)との境に“須花坂”があります。昔、この坂の白雪を血で染めた合戦があり「須花坂の戦い」と呼ばれています。
☆ このことは、関八州古戦録や唐沢老談などに詳しく書かれているようです。
足利城主長尾顕長と、佐野城主の佐野小太郎宗綱は、いわゆる“犬猿の仲”で、かねてから境界争いでいがみ合っていました。たまたま、若手ながら利け者として知られていた松崎藤左衛門盛高という長尾方の部将が、顕長の使者として佐野城におもむき、宗綱以下重臣の居並ぶ中で堂々と佐野方の非をあげ、不法をなじりました。
 ところが、使命を果たして帰る途中、宗綱の命を受けた佐野方の数十騎に取り囲まれ、奮戦むなしく駒場山で戦死しました。
 これを知った顕長は、「和平の使者を殺すとは何事ぞ・・・」と怒り、報復について家臣の小曽根筑前と一計を案じました。
 天正11年(1583)12月29日夜、彦間の砦を守っていた佐野宗綱の部将、小野兵部兄弟が、小曽根筑前のために不意討ちに合って殺されました。盛高の仇討ちのため、筑前の謀略で兵部兄弟の家来のうちに裏切りがでたからだといわれますが、これが須花坂の戦いの発端になるわけです。
 このとき家老たちは、
「まだ夜もあけず、加えて前夜からの大雪、しかも元日のことであって、急に陣触れしてもすぐには将士も集合できません。夜明けを待ち、敵の様子を探ってから出陣しては・・・」、血気の宗綱を押さえようとした・・・関八州古戦録にはこう書かれています。
 しかし、いい伝えによると“白い帷子を着た若い女が、宗綱の愛馬の前にあらわれたと思うと、スーッと消えたのを家臣たちが見て「これは不吉の前兆」と、馬のくつわを取らんばかりにして止めた”といいます。
 そんなことがあって、みんながおじけついたせいでしょうか。将士たちが出発したのは、宗綱が討ち死にしたあとのようです。
 さて、待ちかまえていた筑前たちを追い散らした宗綱は、さらに逃げるを追って須花まできたとき、鉄砲で胸を打たれ、落馬したところを長尾の家臣、豊島七郎左衛門に討ち取られました。
 恨みをのんで、28歳の最後をとげた宗綱の霊を慰めるため、後年、須花坂に珍しいお地蔵さまがまつられました。これは「鎧地蔵」の項でお伝えすることにします。

臺 一雄 著「足利の伝説、続足利の伝説、続々足利の伝説」より

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